「消費社会から格差社会へ(中流団塊と下流ジュニアの未来)」三浦展・上野千鶴子



現代社会の問題に精通する二人が消費・格差に焦点をあてて、ジェネレーション、ジェンダーといった様々な尺度をもって論じている。表と裏、背中合わせの関係にあると二人が言うだけあってとても息があった掛け合いで、よくこれだけ気の利いた会話が出来るなぁと感心。ほとんど編集してないんだろうけど、最初から最後までテンポよく一気に読ませてしまう。


第一部は消費社会・格差社会論。


団塊世代は経済成長の上げ潮に乗っただけで努力せずとも集団として階層が上昇したため、時間が経てば世の中は今よりもよくなるという根拠の無い信念がある。これに対し、団塊ジュニア世代は子供の頃バブル期で非常に豊かな社会で何不自由なく暮らしていたのが、大人になると長い不況の時代になっていて、大学に入ると就職難だし、会社に入っても給料が上がらない。むしろ中流から落ちこぼれない保守的な傾向が強い。まずそうした世代間の格差、意識のズレがあることが指摘される。(第二部で詳しく論じられる)


バブル景気がはじけて徐々に階層分化が明確になり、小泉ネオ・リベ改革で決定的になり、安部ネオ・コン*1政権で格差社会とし問題が一気に露呈した。そうした階層、格差をうまく利用して非正規雇用者を移民の代用にするという国策はちょっと言い過ぎなような気はしたけど。。


次に話はジェンダー格差へ。
女性たちのスカートの下にジーパンとかレギンスという「はにわファッション」がパンツをはく「ラク(楽)」を手放したくない一方、スカートという女性性の記号も捨てたくないというアンビヴァレンツがあると上野。またこれは幼児ファッションでもあるという。赤ん坊の「ロンパース」を思い起こさせる幼児志向であると。三浦が「かまやつ女」と呼ぶ女性たちに多く見られる。


このことから、女性のファッションが異性訴求から女性間の同姓訴求にシフトしていることが窺える。上野はこれを「女子校文化」と呼ぶ。彼女たちが自分のことを「女子」と呼ぶことが象徴的だとも。確かに。この男の目に全く見えない死角だったものが、メディアと消費社会の前面に出てきたという現象は女性独自の価値が通用する社会空間ができた表れである。


一方で上野は、女性の階層が、「かまやつ女」「エビちゃんOL」「総合職女」と三層化していることを指摘している。小倉千加子が階層によって結婚動機が異なり、「生存・依存・保存*2」と三つに分類していることにうまく重ね合わせている。


これに対し、三浦は「エビちゃんOL」は上昇志向のファッションで彼女たちは実は「日経ビジネス」なども愛読していてゆくゆくは女性管理職にもなるという。モテるし仕事も出来る総合職OLと、フリーターでしかもモテない「かまやつ女」に二極化しているのではないかと。
なんとも大雑把な分類ではあるが、まあ「エビちゃんOL」が管理職になるとは思えないので上野の方が一理あるような。


このように男女格差から女女格差が拡大し、個人間の競争になっていることから、フェミニズムが進めてきた女性の社会進出が女性の個人化を進め、競争と格差を拡大している面があると述べられている。


話は徐々に現代の格差社会の問題に入っていく。80年代消費社会を担ったのは「仕事と結婚だけじゃイヤ」という「Hanako世代」であった。自己実現が日本では「消費」、欧米では「生産」という形で現われる。『消費によって人は王様になれる。でも誰からも感謝されない。存在として必要とされない。それが消費の限界です。それに気づいた人たちは、消費以外の何ものかを探し始めた。されが「自分探し」かな、と思います。(三浦)「消費」による「私探し」は微細な差異化の中でタコツボ化していきました。(中略)実はこれが階層分化の予兆でしたね(上野)』


格差社会が生む問題について、上野が19世紀の歴史家・政治家であったA・トクヴィルが近代社会は羨望とルサンチマンをどう処理するかが、政治技術として一番の肝だと言っていたことを引用する。これに対し三浦は現代では下流の人でも人権意識や権利意識、平等意識を強く持っていることから今後、ルサンチマンが強まる恐れがあると述べている。ついこの間の事件を予言したかのような会話であった。
他、少子化問題など述べられている。女性の社会進出を遅らせることで少子化が弱まるのではないかという三浦の考えに上野が反論している。非婚化によるものだけでなく、既婚女性の出生率も同時に落ちていることを挙げ、経済的な要因など少子化問題の根深さを指摘している。


第二部は第一部の前半部分をさらに掘り下げ団塊世代団塊ジュニア・ポスト団塊ジュニア論となっている。


団塊世代の高学歴化や経済階層の上昇は本人の意思や努力というより、集団的な世代現象であり、団塊世代が常に消費社会のマジョリティとして社会の側からおもてなしされるような存在であった。彼らはそうした自分たちと同じ境遇で子供である団塊ジュニア世代をみてしまう傾向がある。


この世代に蔓延していたマイホーム主義で躾もせずに公共的な価値を教えず、また自由放任主義で奔放に育てた結果、大量のフリーターやニートを生み出した。さらに『ニューメディアの登場で新しい情報チャンネルが増え、多様化・個性化がもっと進行するかと思ったら、かえって同調を強いるコミュニケーション空間が成立してしまった。(上野)』結果、ストレスやノイズにさらされることを極力いやがる性質が強まる。


『グローバリゼーションの下で、世界に対してどれだけ競争力を高めていくかということを考えると、予測できないノイズにどう対応できるかというスキルをもっている人たちが、最終的に生き延びる。(上野)』ストレスやノイズ耐性の弱い人たちを大量生産し国力低下を招いたのは、保守政権の自業自得だと上野。


ポスト団塊世代にはさらに警鐘を鳴らしている。彼らは「Hanako世代」の子どもにあたる。「Hanako世代」はバブル景気の恩恵をこうむり、あからさまな上昇志向を経験した、『「なせばなる」という、ネオ・リベのルールを身体化した学校化社会を生きてしまった世代(上野)』。彼らが不安社会に生きるポスト団塊世代の子どもを育てる場合、過剰なコントロールをするので、期待に応えられない場合に大きなストレスを与え、ネガティブな評価に対する耐性の弱い子どもに育つと。「お受験」ブームなどがそれ。さらに「ファスト風土化」する社会がそれに拍車をかけ、コミュニケーションスキルも低下させる。


最後の第三部では三浦がパルコで情報誌「アクロス」を編集していた時代が語られているが、どの世界も似たようなもので、色々苦労してきてるんだなっていうのはよくわかった。


稀少な読者であった上野は毎号、常に同程度の内容のクオリティを保っていたことに感心している。KJ法*3を使った一般的なブレストの方法とは違った会議のことなど興味深かった。


また会社を辞める頃、当時パルコが店としての魅力を失いつつあると感じ、一番書きたかった記事がパルコ批判だったらしい。実際はバブル絶頂期の中、海外ブランドなどの本物志向が進み、本物が無いパルコの客離れが一時進んでいたらしく、社内的な人事や政治にも疲れていたらしいからその辺の感情的なものもあるのかなと思った。


最後に、三浦のデータに基づいた徹底したリアリズムというのは頷けた。


『』内本文引用。


★★★★☆

*1:この区分けが適当かどうかは微妙

*2:生存はまさに金銭的にも一人では生きられないので結婚する「かまやつ女」の層。依存は一般職や派遣の「エビちゃんOL」のボリュームゾーンで結婚によって階層を変化させることも望むため異性訴求に熱心。保存は自己保存するための結婚、総合職女。

*3:『アイデアや情報をユニット化してカードに記録し、収集されたカードの情報に基づきグループ化。この手順を繰り返し、カード間の関係を意味づけ隠れたロジックを構築していく方法』