「自由を考える」東浩紀・大澤真幸


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)


2002年に行われた3回の対談が収録されている。少し古いけど十分今の状況に対応した内容だった。茫漠とした現代社会の問題を鋭い視点から抽出し整理してその解決の方向を指し示してくれている。正直難しくて良くわからないところが多く、まとめきれてないけど概略をのせておく、というか、ほとんど重要と思ったところを引用してるだけだけど。




テーマとしては、いわゆる「大きな物語」や「大文字の他者」、「第3者の審級」といった社会全体を覆っていた規範や意味が失墜した先の「自由」のあり方、意味である。彼らはまず現代社会は大きく二層の構造を持つ世界として捉えている。「シミュラークルの層」と「データベースの層」、つまり「自由」と「管理」の社会である。その上で次のような分析を行っている。


大きな物語」以降の20世紀の社会は100年かけて、その秩序維持のために新しい方法を開発してきたという。東はこれを「環境管理型権力」と呼んでいる。人の行動を物理的に制限する権力であり、多様な価値観の共存を認めている。例として回転数を上げるマクドナルドの硬い椅子やBGMやもはや誰もが使うことを強いられるマイクロソフトのウィンドウズ等を挙げている。これに対し従来の「規律訓練型権力」はひとりひとりの内面に規範・規律を植え付ける権力であり、価値観の共有を基礎原理にしている。つまり学校などである。


そこで、一見自由に見える現代社会は実はおそろしく管理・監視された情報管理社会、「データベース化された社会」であることがまず明かされている。携帯電話はもとより、ネットショッピングや、電子マネー、クレジットカードさえすべて記録が残っていて、例えばアマゾンで本を買えば履歴が残り、今度はその履歴を元にアマゾン側から客観的におまえの欲しい本はこれだろといったものを提示してくる。個人の欲望すら客観的に決められてしまうという。(注1)


東は人間にとって重要なことは、まず所与の条件(自分であること)を引き受けること、と同時にその条件を人と取り替えることができると思う想像力を働かせること、交換可能性であるという。そうでないと社会の前提である共感が生じないからである。(東はこれを「確率的」な状態としてとらえ、大澤は偶然性=偶有性(contingency)と言い換えている。)この問題を突き詰めると匿名性の行き当たる。人は匿名的存在になれたときこそ、アイデンティティから解き放たれ、交換可能性をもっとも強く意識する。住基ネットユビキタス・コンピューティングによって常に個人認証さするような社会では、主体の交換可能性に対する意識が縮減していく。実は今や記名性が全面化しているという。匿名的な自由が奪われていると。


ここまでが第1回の対談。第2回で大澤の「身体」、東の「動物化」を関係させて話を進めている。


まず大澤の身体から離れてバーチャルなデータベースに向かう契機と、逆に身体の動物的な享受への欲求とが共存しているのではないかという問題提起から話が始まっている。「人間的」だと考えていたものを極端に純化していったときに、データベース化した世界であると同時に東の「動物化したポストモダン」であるような世界が逆に出てくるという。東はジョルジュ・アガンベンの「ゾーエー(生物的身体)」「ビオス(政治的身体)」を引用して、自身の「動物化の層」「ヴァーチャル化の層」に対応させながら「情報技術・データベースに管理される層」と「多様性が演出される層」が別々に存在していることを示唆している。両者は表裏一体なのではなく、もともと共存していたものが差異として前面に出てきたのだと言っている。(注2)


例えばコミュニケーションにしても、今の社会では、言葉のスペクタクル化が進んでいて何が本当で何が嘘なのかわからないまま、ほとんど自動機械のようにしゃべるのがコミュニケーションだということになっている。ファミレスやコンビニでのマニュアル化された対応やケータイやメールによるつながりの確認のような、貧しいコミュニケーションのように、「ビオス」は希薄になっているという。一方「ゾーエー」を豊かにする装置はこの世に満ちている。昔はおいしい水を手に入れるのはそれなりに大変だったけど、今やコンビニに行けば、つまりビオス的レベルなしにゾーエーの欲求を満たすことができる。


こうした状況にどう対処していくかが今後の課題であるというところで、第2回の対談は終わり、第3回は再び「匿名の自由」「偶有性」の問題から話が始まる。


東は「匿名性」とは固有名に対立する概念ではなくて、そもそも「固有名(人間の実存的本質)」対「確定記述(人間のさまざまな特徴の集合体)という発想とは別の軸で考えられなければならないという。そこで彼の著書「存在論的、郵便的」ではその別の軸を「誤配可能性」と呼んでいる。固有名とはそれ自体実存するものではなく、社会の中で伝達され、さまざまな誤配や誤解に曝され、幾度も訂正されることではじめて生まれるものである。その条件が誤配可能性であると。今までは匿名性は社会空間の複雑さによって確保されていた、だからこそ固有名の感覚も生まれていたけど、しかし現代の高度な情報技術に支えられた管理型社会では、情報追跡可能性の精度が飛躍的に上がってしまったため、誤配可能性の量がきわめて低くなり、人々は自分が固有の存在だと感じられなくなっているという。さらに社会の断片化が進むと考えている。


二人の対談は偶有性とか偶発性といったものを極大化し、意識的に組み込んだ社会をどう構想していくかということで締めくくっている。つまり確定記述に対して固有名を立て、特殊性に対して単独性を立て、石に対して現存在を立てるのが今までの現代思想のフレームだったとするなら、これから必要なのは偶有性あるいは匿名性、つまり「anyoneの思考」であると。それはまた、社会秩序を支えてきた共感のネットワークを今後どのように維持していくのかという問題にも通じている。


(注1)
このような社会では個人的な「小さな物語」が台頭し、人間の「動物化」が加速度的に広まる。

(注2)
このような社会にあって現代思想、哲学の必要性にまで話は及ぶ。第三者の審級としての哲学者も失墜したと。世界で起きているいろんなことを解明する知識人のいうことにリアリティが無くなってきていると言っている。実際リチャード・ローティは哲学はもう必要ないよということまで言っているらしい。そういう状況では、より現場に近いところにいてアクチュアルなことを言う心理学者や社会学者が一時的にではあるにせよ求められることになるのだそうだ。


★★★☆☆