「東京から考える」東浩紀・北田暁大



1971年に生まれ、東京郊外で育った二人が
東京から現代社会の在り様を論じている。
対談形式で行われた議論を再編集したもので
話が行ったり来たりしているためか、
少し分かりづらかったので整理しておいた。




ここで取り上げられ、広範にわたって参照される東京郊外は
まず大きく二つに分類されている。


一つは東急田園都市沿線の青葉台や映画「トゥルーマン・ショー」のシーヘブンに代表されるテーマパーク化されたシミュラークル・シティとしての「広告郊外」。「・・が丘」「・・台」というキャッチフレーズに象徴される。「広告郊外」というのは北田の著書「広告都市・東京」にちなんで東が名付けている。(広告都市は渋谷のような西武と東急という巨大資本によって構築された広告空間に代表されるような都市のことで、広告都市を「盛り場ヴァージョン」(西武)、広告郊外を「住居ヴァージョン」(東急)として対応させている。いずれも共同幻想に依存したシミュラークルとして通底している。)


もう一つはファミレスや量販店が建ち並ぶ柏市をはしる国道16号線沿いの光景に象徴される地域性の消滅した「国道16号線的」あるいは「ジャスコ的」東京郊外。三浦展の言葉を借りて「ファスト風土的」とも呼んでいる。


ここまでを共通認識として、徐々に2人の対立軸が明らかになっていく。


北田はヴィーナスフォート恵比寿ガーデンプレイス東雲キャナルコートもテーマパーク的という観点から「ジャスコ的」であるという。そして渋谷や六本木までもが「ジャスコ化」される可能性があるらしい。六本木にはすでにドンキが違和感なく入り込んでいることからも分かりやすいが、渋谷も資本やディベロッパーによって囲い込まれたパルコ的な「シミュラークル」から大資本に統制されないパルコ界隈や文化村通りの外縁部、あるいは明治通りキャットストリートなど「ストリート」に主体が推移しつつあることからもその兆候があるという。それは人々が求めるものが意味や物語からモノやヒト、コトなど情報の集積へと変遷していることを意味し、そういう意味で言えば渋谷も秋葉原も同じであるとまで言及している。


一方、東は『ディズニーランドは共同幻想に依存した記号的空間、ジャスコ共同幻想など必要としない「動物的」空間』として分けて考えている。彼はさらに「ジャスコ的」空間は否定的に取られがちだが、実は『適度にバリアフリーで、適度に監視カメラが設置され、適度にベンチやゴミ箱が置かれた「住みやすい」空間でもある。そのようないわば「人間工学的に正しい」空間が、いまコンビニやファミレスと結びついて、東京といわず日本中を侵食し、風景を画一化している。』と述べている。また歴史のある下町や個性のある街は、今後テーマパーク的にしか残らないと言っている。例えば下北沢再開発問題に対しても、そうした街を残すという考えはノスタルジーにしがみついた一部の人間の意見でしかなく、『大勢としては街の記憶は犠牲にして、低コストでもセキュリティやアクセシビリティを確保する人間工学的なデザインが都市を覆っていくのは、もはや避けられない』と述べている。郊外化された「都市内郊外」が共同幻想を持たない脆弱な都市を呑み込みこむことは都市のダイナミズムを生み出し、それはそれでいいのではないかと、まず肯定し、その上でまったく新しい都市を考えていくことを提言している。


これに対し北田は国道16号線的なリアリティの拡大、都市風景の郊外化は不可避なものと認めつつも、違和を感じ、ある程度の多元性は保証されるべきではないかと、ノスタルジーの権利を主張している。しかし人間工学的な正しさは多様性を担保するので、北田の多元主義コミュニタリアニズムの観点から抗うのはなかなか難しい。それでも『都市全体はセキュリティを指向していて、バリアフリーの方向に向かっていくとしても、しかしなかには比較的都市工学的な要素が薄く、共同体としての特徴を打ち出しているサブ都市も存在する。東京全体は一種のメタ都市として存在していて、その下にいくつかサブ都市も存在していて、個々人が状況に応じて取捨選択していく』とその可能性を探っている。


印象としてはリベラルな東と保守的な北田という感じだった。どちらが正しいのかは分からない。最終章では現代思想家らしく、ネイションから少しセンシティブな家族の問題に言及している。この他、コミュニティや経済格差など、社会問題に対しても多岐に渡って議論されていた。


注:『』内本文引用


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