「季節の記憶」保坂和志
- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1999/09/01
- メディア: 文庫
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ストーリーは例のごとく無かった。
鎌倉に住む「僕」と幼い息子、それから近所に住む松井さん、
その妹の美沙ちゃんの4人を中心に
たまに訪れる友人達も含めて
日常から生まれる小さな出来事や感じた事、思ったことが描かれ、
鎌倉の風景と一緒に
それがどんどんと開かれて繋がって流れていく。
少しだけ理屈っぽい主人公とそれを取り巻く
少しだけ変な人々との示唆に富んだ軽妙な会話、
そのズレ加減が面白い。
冒頭の「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」
という息子の問いに「僕」が丁寧に答えていくところから、
一気に作者のペースに引き込まれていく。
この小説にはなるほどと思う箇所がたくさんあるけど、
中でも、近所に引っ越してきたつぼみちゃんの影響で
文字を覚える事になってしまいそうな息子を危惧した
「(息子はまだ文字を覚えない方がいいと思っている)僕」の考えのくだり。
大分簡略化して要約すると、
「文字を覚える事は言語の機能を強化する事になり、言語の機能とは抽象化とか象徴化とかのことで、人間は言語によって効率よく膨大な情報を処理して保存していく。しかし文字によって強化された言語の脳はとても強くなって、他の視覚、聴覚などの生の感覚を抑圧する、という。例えば文字を覚える前の息子は襖の模様を生の模様(言語を介さない)として覚える事が出来るが、大人の僕らはよほど特別な襖でない限り「ただの襖」として括っててしまうことになるという。したがって、襖の模様を覚えていることもない。」
これは言語学・記号論的には当たり前のことなのだろけど、
確かにそう考えると言葉の支配力、恣意性は恐ろしい。
言語があるから考える事ができるし、文化がある。
でもその一方で、その言語に拘束されてしまっている、という不自由さ。
関係ないけど、これと似たようなことでよく感じるのは、
経験や知識によって考え方が制約されること。
たまにいい建築を見た瞬間、
それを越えられなくなってしまうんじゃないかと思ってしまうことがある。
かといって、
そうしたものを見ていないと同時代性を得られない、という不自由さ。
もっと自分の中に強固な理想を持っていればいい話なんだろうけど。
その他、
「・・・一回しか生きてないのに、こんなね、20世紀後半の、人類史全体が相当よく見渡せる時代に生きることができたってのは驚くべきことだろ?」(略)「・・・過去からつづく時間の先端として現在を特別なものと思うようにできている。だから時間が直線的なものだという前提に立つかぎり、綿々とつづいてきた過去に生まれず、現代に生まれたことはすごいことだ---と思うことはきわめて当たり前だと言える。」(略)「23世紀にも俺みたいな人間がいて、23世紀なりの俺が『20世紀なんかに生きてたら人生の密度が薄かったんだろうな』って考えてんだよ」
「生き物には大きさに決まった形があるんだよ」
などなど。
この本には続編があるらしいのでぜひ読んでみたいと思う。
★★★★☆